優しい別れ [公募] |
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達郎の部屋は蒸し暑い。 ひどくのどが渇いているのに、目の前でうつむく彼は水さえも出さない。 相変わらず気が利かない男だ。 言いたいことはたくさんあるのに、上手く言葉が出ない。 首筋の汗を指先で拭うと、ようやく気付いたように彼が立ち上がった。
「ごめん、エアコンが壊れてるんだ」 西側の窓を開けると、一瞬にしてよどんだ空気が流れはじめた。 光の粒が舞い上がり、それと同時にチロチロと可愛い音がした。 カーテンレールに吊るされた風鈴だ。青いガラスの小さな風鈴が、優しく揺れた。
新しい彼女ができたのだと思った。 窓辺に風鈴を吊るすような風情は、達郎にはない。 道端の花を平気で踏みつぶすような人だった。 風も雨も、彼にとってはただの自然現象にすぎない。 それでも私たちは楽しくやっていた。 星よりもネオンが輝く都会で、ふたりの将来を夢見ていた。
友人が主催するパーティで知り合って、すぐに意気投合。 都合が合えば夜の街を飲み歩き、愛を語りあった。 ずっとこのまま、離れることはないと思っていた。 互いに結婚を考え始めた3年目、達郎が突然地方に転勤になった。 東京から新幹線で3時間、在来線で40分の小さな町だ。 2年後には戻ってくるという言葉を信じ、電話とメールで遠距離恋愛を続けて一年が過ぎた。 距離に負けたくないけれど、正直限界を感じ始めていた。
そんなとき、「別れてほしい」と達郎から電話があった。昨夜のことだ。 予感はあったけれど、電話で別れを告げる無神経さに腹が立ち、遠恋後初めて彼の部屋を訪れた。
達郎が、冷蔵庫からようやく麦茶を出してきた。ガラスの容器に入っている。 「麦茶、自分で作ってるの?」 「あ、うん」と達郎が頷く。キッチンをちらりと覗くと、長ネギとジャガイモが見えた。 「自炊してるの?」 「ああ…、この辺は野菜が安いから」 驚いた。炭酸飲料とピザとカップ麺で暮らしていた人が、麦茶を作って自炊? 「もしかして、タバコもやめた?」 「うん」 「やっぱり新しい彼女ができたのね。彼女のために、タバコもやめたんだね」
達郎が、あきらかに動揺した。目が泳いでいる。 「安心して。会わせろなんて言わないから」 思わず咳込んだ達郎が、青い顔で麦茶を流し込んだ。 「大丈夫?」なんて、背中を擦ったりしない。 新しい彼女がやりそうなことを、私は一切しない。 料理を作ることも、部屋の掃除も、タバコをやめさせることも、3時間40分かけて、逢いに来ることも。
負けた。距離ではなく、その人に。 「きっと優しい人なのね」 立ち上がって風鈴を鳴らした。彼女の存在を知って、どこか安心している自分がいる。 もういいじゃない。私は私で楽しくやるわ。 振り向いて、精一杯強がりの笑顔を見せた。
「いいわよ。別れてあげる」 達郎は、心底安心したように微笑んだ。うっすらと涙が浮かんでいる。男のくせに何? 「彼女と、おしあわせに」 送っていくと言う達郎を断って、駅までの道をひとりで歩いた。 思ったよりも傷ついていないことに気づいた。 あの風鈴の音色が、胸に残っているせいかもしれない。 達郎が、少し痩せて男前になっていたことが、ちょっとだけ悔しいけれど……。
早足で歩く彼女を、達郎は二階の窓から見ていた。 一度も振り返らない。彼女らしいと思う。 抑えていた咳が、体全身を震わせて激しく吹き出した。 引き出しから薬を取り出して飲むと、少しだけ落ち着いた。 窓辺にしゃがみこんで、空を見る。雲の流れが早い。季節は夏へと向かっている。
達郎が余命宣告をされたのは、一か月前のことだった。 もうすぐ、この部屋を出て実家で余生を過ごすことになっている。 タバコもやめた。体にいいものを食べるようにした。
最後に、彼女に逢うことが出来てよかった。彼女の笑顔が見られてよかった。 短い人生の中で、一番輝いていた時を過ごした大切な人だ。 自分の死で、彼女を悲しませることだけは避けたかった。
初夏の風に、風鈴が寂し気に鳴った。病院の帰りに、縁日で買った風鈴。 それは、初めて会ったパーティの夜に、彼女が着ていたドレスの色に似ていた。 見慣れた景色に、彼女の姿はもうない。達郎は窓を閉めて、指先で風鈴を鳴らしてみた。 「さようなら」と優しい音がした。
http://rin-ohanasi.blog.so-net.ne.jp/2016-07-10
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Jul.16(Sat)18:40 | Trackback(0) | Comment(0) | りんのショートストーリーより | Admin
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