りんのショートストーリーより |
|
| ペンギンデート [男と女ストーリー]
あの日と同じような服を選んだ。黒いコートに白いマフラー。 服装は同じでも、体型はあの頃とは似ても似つかない。 すっかり年をとってしまった。
「50年後に、ペンギンの前で逢いましょう」 なんて不確かな、なんて頼りない約束だろう。50年前、気が遠くなるような約束をした佐伯が来る気配はない。 動物園の閉園時間が近づき、冷たい風が通り過ぎた。
佐伯は、夫の同僚だった。 親の勧めで結婚した夫は、無口で思いやりに欠ける人だった。 飲み会の後はいつも同僚を連れてきて、酒やつまみを用意させられた。 新婚生活は苦痛の方が多く感じた。
そんな私に、唯一優しく接してくれたのが佐伯だった。佐伯はいつも私を気遣ってくれた。 台所に顔を出しては、「いつもすみません。料理を運びましょう」と手伝ってくれた。 「男が台所に入るものじゃないわ」と言うと、「奥さん古いなあ。これからは女性の時代ですよ」とさわやかに笑った。 おそらくこのとき、不覚にも私は恋に落ちたのだと思う。 佐伯が来るのを心待ちにしている自分に戸惑い、必死に否定してみたけれど想いは募るばかりだった。 もちろん誰にも知られてはいけない秘密の想いだ。 胸の奥に閉じ込めて決して開けてはいけない。 そんな日々が半年ほど続いた。佐伯はいつも優しかった。 後片付けを手伝ってくれたり、酔いつぶれた夫を布団に運んでくれた。 そのあとは、酔い覚ましのコーヒーを飲みながら楽しいおしゃべり。 その時間は、私にとって宝物だった。
しかしそんな輝く時間は、ある日突然消えた。佐伯が東京を離れることになったのだ。 「九州へ転勤になったそうだ。自分から志願したらしい」 夫の言葉に、私は動揺した。 「どうして? 佐伯さん、実家も関東なのに」 「さあ、東京を離れたい理由があるんだろう」 何かを含んだような言い方だった。夫は気づいているのか。 それならば、佐伯も私の気持ちを知って離れて行くのか。 胸が苦しくなり、気づけば「外で会ってほしい」と佐伯に電話をしていた。
私たちが一度だけデートをしたのは、真冬の動物園だった。 ひどく寒い日で、私たちは言葉を探しながら、少し離れて歩いた。 佐伯は、ペンギンの前で立ち止まった。 「あなたはまるでペンギンのようですね。黒いコートに白いマフラー。あそこでじっとしているペンギンとそっくりですよ」 「あらいやだ。私、あんなずんぐりじゃないわ」 私たちは笑いながら、少しだけ寄り添った。 「僕はこの先誰かと出会い、いつか結婚するでしょう。そしてあなたは、子供を産んで母になり、素敵に年をとっていくでしょう」 「ええ、そうね」
「50年後に逢いませんか」 唐突に佐伯が言った。 「50年後? 私ずいぶんなおばあさんだわ」 「僕だっておじいさんだ。でも、そのころになれば、もう逢ってもかまわないでしょう」 穏やかな遠い目をしていた。 「いい茶飲み友達になれそうね」 「では、50年後の今日、ペンギンの前で」 佐伯はそう言って、軽く手を振った。それが彼との別れだった。 冗談みたいな儚い約束を残して、佐伯は駅へと走り去った。
佐伯が言ったように、私はやがて母になり、思いのほか子煩悩な夫と穏やかに暮らした。 平凡だけど幸せな日々に、佐伯のことも思い出さなくなっていた。 年をとって、子供が巣立ち、夫を看取った。ひとりになると、なぜだか佐伯のことを思い出した。 もう恋ではない。ただ懐かしい思い出として、私は佐伯に想いを馳せた。 そしてあの頼りない約束を思い出した。
ペンギンは、どこを見ているのだろう。遠い故郷の夢を見ているのだろうか。 寒さをこらえながら思い出に浸っている私は、本当にペンギンみたいだと、ひとりで笑った。 ふと気配を感じて振り返ると、佐伯が立っていた。 「遅くなりました」と微笑む佐伯は、あの頃のままだ。あの時と同じ服装で、同じ顔で、何も変わっていない。 「ずるいわね。あなただけ若くて」 「すみません。でも、あなたが幸せそうでよかった。ふくよかになられて、幸せな証拠だ」 「まあ、いやな人。ますますペンギンみたいって言いたいんでしょう」 佐伯は優しく笑った。そして静かに消えた。
本当は知っていた。佐伯はおじいさんにはならなかったこと。 彼は九州に転勤した2年後に病に倒れ、そのまま逝ってしまった。 「茶飲み友達になれなかったわ」 閉園を告げる音楽が、北風に乗って聞こえてきた。 冷え切った体をさすって、のろのろと歩き出す。 明日は夫の墓参りでもしようかと、何となく思った。
*****
公募ガイド「小説虎の穴」で佳作をいただいた作品です。 今回のテーマは、「老人が主人公の話」です。 この作品、自分ではとても気に入っています。
http://rin-ohanasi.blog.so-net.ne.jp/2014-12-11
| |
|
12月22日(月)05:31 | トラックバック(0) | コメント(0) | 地球さんが好き | 管理
|