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2016年7月16日を表示

優しい別れ [公募]

達郎の部屋は蒸し暑い。
ひどくのどが渇いているのに、目の前でうつむく彼は水さえも出さない。
相変わらず気が利かない男だ。
言いたいことはたくさんあるのに、上手く言葉が出ない。
首筋の汗を指先で拭うと、ようやく気付いたように彼が立ち上がった。

「ごめん、エアコンが壊れてるんだ」
西側の窓を開けると、一瞬にしてよどんだ空気が流れはじめた。
光の粒が舞い上がり、それと同時にチロチロと可愛い音がした。
カーテンレールに吊るされた風鈴だ。青いガラスの小さな風鈴が、優しく揺れた。

新しい彼女ができたのだと思った。
窓辺に風鈴を吊るすような風情は、達郎にはない。
道端の花を平気で踏みつぶすような人だった。
風も雨も、彼にとってはただの自然現象にすぎない。
それでも私たちは楽しくやっていた。
星よりもネオンが輝く都会で、ふたりの将来を夢見ていた。

友人が主催するパーティで知り合って、すぐに意気投合。
都合が合えば夜の街を飲み歩き、愛を語りあった。
ずっとこのまま、離れることはないと思っていた。
互いに結婚を考え始めた3年目、達郎が突然地方に転勤になった。
東京から新幹線で3時間、在来線で40分の小さな町だ。
2年後には戻ってくるという言葉を信じ、電話とメールで遠距離恋愛を続けて一年が過ぎた。
距離に負けたくないけれど、正直限界を感じ始めていた。

そんなとき、「別れてほしい」と達郎から電話があった。昨夜のことだ。
予感はあったけれど、電話で別れを告げる無神経さに腹が立ち、遠恋後初めて彼の部屋を訪れた。

達郎が、冷蔵庫からようやく麦茶を出してきた。ガラスの容器に入っている。
「麦茶、自分で作ってるの?」
「あ、うん」と達郎が頷く。キッチンをちらりと覗くと、長ネギとジャガイモが見えた。
「自炊してるの?」
「ああ…、この辺は野菜が安いから」
驚いた。炭酸飲料とピザとカップ麺で暮らしていた人が、麦茶を作って自炊?
「もしかして、タバコもやめた?」
「うん」
「やっぱり新しい彼女ができたのね。彼女のために、タバコもやめたんだね」

達郎が、あきらかに動揺した。目が泳いでいる。
「安心して。会わせろなんて言わないから」
思わず咳込んだ達郎が、青い顔で麦茶を流し込んだ。
「大丈夫?」なんて、背中を擦ったりしない。
新しい彼女がやりそうなことを、私は一切しない。
料理を作ることも、部屋の掃除も、タバコをやめさせることも、3時間40分かけて、逢いに来ることも。

負けた。距離ではなく、その人に。
「きっと優しい人なのね」
立ち上がって風鈴を鳴らした。彼女の存在を知って、どこか安心している自分がいる。
もういいじゃない。私は私で楽しくやるわ。
振り向いて、精一杯強がりの笑顔を見せた。

「いいわよ。別れてあげる」
達郎は、心底安心したように微笑んだ。うっすらと涙が浮かんでいる。男のくせに何?
「彼女と、おしあわせに」
送っていくと言う達郎を断って、駅までの道をひとりで歩いた。
思ったよりも傷ついていないことに気づいた。
あの風鈴の音色が、胸に残っているせいかもしれない。
達郎が、少し痩せて男前になっていたことが、ちょっとだけ悔しいけれど……。


早足で歩く彼女を、達郎は二階の窓から見ていた。
一度も振り返らない。彼女らしいと思う。
抑えていた咳が、体全身を震わせて激しく吹き出した。
引き出しから薬を取り出して飲むと、少しだけ落ち着いた。
窓辺にしゃがみこんで、空を見る。雲の流れが早い。季節は夏へと向かっている。

達郎が余命宣告をされたのは、一か月前のことだった。
もうすぐ、この部屋を出て実家で余生を過ごすことになっている。
タバコもやめた。体にいいものを食べるようにした。

最後に、彼女に逢うことが出来てよかった。彼女の笑顔が見られてよかった。
短い人生の中で、一番輝いていた時を過ごした大切な人だ。
自分の死で、彼女を悲しませることだけは避けたかった。

初夏の風に、風鈴が寂し気に鳴った。病院の帰りに、縁日で買った風鈴。
それは、初めて会ったパーティの夜に、彼女が着ていたドレスの色に似ていた。
見慣れた景色に、彼女の姿はもうない。達郎は窓を閉めて、指先で風鈴を鳴らしてみた。
「さようなら」と優しい音がした。

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7月16日(土)18:40 | トラックバック(0) | コメント(0) | りんのショートストーリーより | 管理


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